初めてのキスとその事情

 

 

「起きないなー」
「そうね」
 戦いがすべて終わったあとの宮殿は溶けるくらい静かだった。
 戦いの真っ直中にいた少年は、まだ目を覚ます気配がない。医者によれば、疲労感で眠ってるだけだと言うから心配はないらしいが。
「ビビ」
「ん?」
「寝なきゃダメだぞ?」
 窓を開けて外を見つめるビビをチョッパーが心配そうにのぞき込む。昨日から降り続く雨がもたらした肌寒さは、彼女にとってひどく心地が良く、体を冷やさないようにと注意してくれる医者たちを辟易させるばかりだった。
「トニーくんこそ寝て?」
「おれ、医者だし」
「ふふっ、偉いわ」
 医者だという手前そうは答えるものの、実際体の疲れは癒えていない。だからチョッパーは素直に欠伸をひとつ。カルーの座るベッドにゆっくりと身を沈める。
「睡眠は大事だな」
「でしょう?おやすみ、トニーくん」
「うん、ありがとう」
 その言葉を最後にチョッパーは眠りについた。戦いのあと眠りもしないで看病をしていたのだから疲れているのは当たり前で、それでも彼を動かしたのは医者としての使命と仲間を思う気持ちだったんだろう。人として見ればまだまだ子ども、だけどとても立派な人だとビビは思う。
 向かいのベッドが音を立て軋んだ。ハッと頭を上げるが音の主は目覚めたわけではないらしい。ビビは少し水の張られた洗面器にタオルを浸した。冷たい水の中からそれを取り、キュッと絞ってルフィの額に乗せる。この寝顔に、何度礼を言っただろう。何度ありがとうと呟いただろう。そしてまた、零れる言葉。
「ルフィさん」
 涙で曇って、前が見えなくなる。
「本当に、ありがとう」
 同時、部屋の扉を開ける音がした。
「あ。ビビちゃんっ」
 大きな扉を思いの外簡単に開けて、部屋へ入ってきたのは未登録[1]
未登録ちゃん」
「ルフィ起きた?」
「ううん。まだ眠ってるわ」
「そっか、まだ寝てるのかー」
 ビビの隣に腰掛け、眠っている男の額を指で弾いた。一瞬眉を顰めた気もしたが、すぐに元の寝顔に戻りスースーと寝息を立てている。
「疲れたんだね」
「えぇ」
「起きたらすっごい食べるよ」
 宮殿の食料なくなっちゃうかもしれないね、言ってひひっと笑った。
 背もたれのない椅子の、シートの部分に軽く手のひらを置き前後にゆらゆらと揺れる。しばらくの沈黙のあと小さく聞こえたため息に、ビビは未登録[1]を見た。その目は確かにルフィを捉えてはいるが、しっかりと映り込んではいないのだろう。
「あのさ、」
 疑問が弾けるように発された声。
「なんていうか、あたしは、んー…一応は、女だったりするわけで」
 うつむき加減の彼女の目は、ひどく悲しげ。どこからどうみても女の子よと返せば、少し困惑した笑みをこちらへ向ける。
「生きてるだけでよかったってさ、思わなきゃいけないのもわかるんだ。でも、なんか、笑っちゃう、…んだけど、」
 すごく女々しいのかもしれないと零した彼女口から、次いでクロコダイルの名が出た。そしてビビは、彼女の瞳が少し曇り気味なわけを悟る。
未登録ちゃん…」
「やだなーって思う、自分が嫌なのかも。たかがあんなこと、生きてることと比べたらどうでもないことなのに」
 たかが?
「たかがじゃないわ」
「ビビちゃん…」
「わかるわ。わたしだって、同じ女だもの」
 思い出したのは、まだ闘いの真っ只中。レインベースでの出来事だった。



「下衆っ」
 ミス・オールサンデーの能力で両手を拘束された未登録[1]は、隣にいる男に強い声で言い放つ。男、クロコダイルの口から出た真実を導く言葉は、聞いて平常でいられる言葉ではない。
 ―― "砂嵐" ってヤツが、そううまく何度も町を襲うと思うか……?
 未登録[1]は見たのだ。絶望を打ち砕こうと、希望を掘り続ける男を。ひどく苦しい状況下でも光を掴もうとするあの姿を。彼を嘲笑うかのように、クロコダイルはその言葉を発した。
「なにか言ったか」
「知らないの?あんたみたいなのを、下衆って言うの」
 クロコダイルを睨みつけるその瞳は、敵襲に怯えるいつもの未登録[1]の瞳ではない。
「あんたに、邪魔する権利はないのに」
 その瞳の色は怒り、幾分滲んだ涙は恐怖からではない。感情を抑える術を知らない子どもは激昂のまま言葉を紡ぐ。
「笑う権利なんてないのにっ」
 大声で敵に立ち向かうなんてひどく珍しいこと。しかもそれがこの闘いの要となっている男だと、未登録[1]は知っているのだろうか。
「ハハッ!ハッハッハッハッ!」
 威勢がいい、そう笑って未登録[1]を見下した。
未登録!」
未登録に手ェ出すんじゃねェぞっ」
 海楼石でできた檻の中、手の出せない状況で仲間たちは声を上げる。それを楽しむかのようにクロコダイルは未登録[1]の喉元に手を伸ばした。
「舌を噛みちぎった人間がなぜ死に至るか知ってるか?」
 冷静な問いと、反して熱を持つその指先に怪訝な表情をくれてやればクロコダイルは続ける、窒息だと。
「噛みちぎって神経を失った後舌が喉の奥に詰まる。大量の血も飲み込むことは不可能だ」
 首筋をぬるく伝う感覚、汗にしては重い。見えないがわかる。声の出ないほど強い痛みが、喉の内と外から支配してゆく。クロコダイルの指先は、首を圧迫するのが目的ではないらしい。指が喉に食い込み、五指の先からしたたり落ちるのは血液。
 ナミの目が見開かれ、声を失う。
 まだ年端もいかない少女の唇を、大の男の唇が無理矢理塞ぐという、ひどく悪趣味な光景だった。
 刹那、ナミが思い出したのはこれまでの旅中で "女の子" でいようとした彼女の姿。おしゃれだのなんだの、いわゆるガールズトークに頬を高揚させていたのは、そう遠くないころの話だ。家族や仲間とはまた違う意味の "好き" すら判別できない彼女の、あんたほんとにサンジくんの妹ねェと思わせるようなロマンチスト・シチュエーションを語る姿は記憶に新しい。大人に背伸びしようとする、年相応の感覚。
 彼女を助ける術を持たない自分にひどく苛立つ。なぜこの "安全な檻の中" にいるのが彼女ではなく自分なのだ。
 緩慢に唇を離した男はただ嘲笑う。
 しかし未登録[1]は反応を示さない。こんな状況や、痛みになんか慣れてないはずだ。大声出して叫びたいのを堪えているのか、いや、声が出ないほどつらいのかもしくは――、
「苦しいか」
 僅かだが、口端から零れるそれが目に焼き付いた。
「……っ、」
 砂だ。
「な、んてことすんの、あんたっ!」
 恐怖と動揺で発した声が浮つく。残酷としか形容のしようがない行動に、全身が総毛立った。ここから見える未登録[1]の双眸、瞳孔が徐々に開かれていく様。声を出さないのはでなく、出したくても出ないのだ。
 異様なその光景に、場違いにも同じく檻の中で一部始終を目撃したスモーカーは目を閉じる。起きていることから目を背けるためではなく、現状を整理するために。それと、漠然と存在する正体のない焦燥感を拭い冷静になるために。
「あの野郎…」
「許さねェ」
 ゾロは刀に手をかけ、ウソップと未登録[2]が小さく呟き落とした。ナミの視線は未登録[1]と、クロコダイルと、ビビに向かう。ミス・オールサンデーによって体を拘束された彼女の気持ちを考えると、またつらい。
 だが次の瞬間、足が宙に舞う。
「!」
 わずかにクロコダイルの顎を掠め、急な攻撃の反動でクロコダイルの手は緩く解ける。赤い細線が顎先に走り、未登録[1]は本格的に床に崩れ落ちた。

「クソワニィィイィィ!」
 ルフィの声が響き渡る。同時に、ナミの耳奥で渦巻いていた耳鳴りが消えた気がした。
「ビビ!」
 ルフィはビビに目を向け、この状況と、なにもできない自分に怒りで震えている少女の名前を呼ぶ。
「何とかしろっ!おれ達をここから出せ!」
「ルフィさん……」
「ルフィ」
「クハハハ。ついに命乞いを始めたか、麦わらのルフィ!そりゃそうだ、死ぬのは誰でも恐ェもんさ……」
 違う。そうじゃない。
「おれ達がここで死んだら!誰があいつをぶっ飛ばすんだ!」
 ナミの頬が薄っすらと赤みを取り戻した。未登録[1]の足が動いた瞬間思った、この闘いがすべて終わった時に彼女になんと言ってあげようかと。きっとあの小さなレディは、思い描いた理想と違うシチュエーションを悔やみ、昇華できないモヤモヤを抱えるに違いない。あたしは大人ぶって、いい女ぶって、お姉さんぶってどんなことを言ってあげられる?笑うかもしれないけれど、まったく現状とはかけ離れた、そんなことを思っていた。
 だって未登録[1]は苦しくても生きている。まだ、生きてる。諦めてない。弱く反撃した足が、あたしたちに大きな希望をくれた。
「………自惚れるなよ、小物が……」
「………おまえの方が、小物だろ!!」
 すべての希望を生かせ。



 未登録[1]には途中からの記憶はなかった。覚えているのは吐き気のするほど傲慢な横顔と、喉の奥から沸く圧迫感。それを与えた、唇。
未登録ちゃん、」
「ロマンチックにー、とまでは言わないけどさ、……好きな人、とまではー、言わないけど、」
 ちょっと悔しいね、苦笑う未登録[1]にビビはなにを言ったらいいかわからない。自分が助けていればとか、代わりになっていればとか、過ぎ去ったことを言っても彼女の顔を曇らせるだけなのだ。
「たかが、よ」
 声の主はナミ。先ほど未登録[1]が入ってきたのと同じ扉に寄りかかり、肩を竦めた。突然の声に未登録[1]とビビが目を向ければ、ナミはルフィの寝ているベッドの傍らまで来て、未登録[1]と同じようにその額を指で弾いた。
「あんなのは "たかがキス"、数に入らない。そもそもクロコダイルの目的はキスとはかけ離れてたじゃない。ノーカウント」
 ルフィを挟んだ向かいのベッドに腰を落ち着け、まだ闘いの痕が残る、痛々しくもどこかのコックが賛美を贈るきれいな脚を交差させる。
「ノーカウント…?」
「当たり前じゃない。バカじゃないのあんた」
 いつも通りの口の悪さがその時やけに安心させただなんて、言ったら笑うだろうかとビビは思った。
「あんなのキスに数えるなんて相当バカよ。区別をつけなさい区別を。それともなに?人工呼吸もキス?ルフィもチョッパーも海で溺れて命がけのキスしすぎじゃない」
 女と男は違うんだと抗議をしたい気持ちもそりゃああったけれど、未登録[1]の手をぎゅっと握り、ファーストキスなんかじゃないわよと呟いたナミの目は真っ直ぐで、思わず鼻の奥がツンときた未登録[1]は深く頷く。
「さすがナミさんね」
「ナミちゃん、大人だねー」
「当たり前よ」
 そんな、女性陣の会談。


「いやーっ!よく寝た〜っ!」
 いつもと変わらない大きな腹時計を鳴らしてルフィは目を覚ました。眠ってから三日目の出来事。起きた瞬間から帽子を探したり、腹が減ったと喚いたり、その様子もいつもと大して変わらない。
「よかった、ルフィさん元気になって……」
「元気?おれはずっと元気じゃねェか」
「バカねー。熱とか凄くて大変だったのよ?ビビとチョッパーが、ずっとあんたの事看病してたんだからっ!」
「そうなのか?ありがとうな!」
 手にした本をトントンと整理し呆れ声を上げたナミの隣、起きたばかりでも騒々しいルフィを見て、ナミと同じく呆れ顔をした未登録[1]はおはようと笑いかけた。
未登録
 そんな彼女に気づいたルフィは手先でちょいちょいと呼び寄せ、ポケットに入った菓子パンにぎくりとしながら未登録[1]は首を傾げる。確かにこれはルフィが起きたときのためにと常備しておいたものだけど、やたらと勘がよすぎるのも考えものだと少しだけ眉を顰めた。
「別にいいんだけどさ、犬だって出すまで待つでしょーよ」
 呼ばれるままに近づいた未登録[1]はポケットの中に手を入れる。
「なにがだ?」
「へ?」
「あのな、」
「ん?」
 腕を引かれ、重力に反することなく沈む体は引くと同時に支えに回ったルフィの力でプラマイがゼロになった。突然のことに、未登録[1]もその支えを頼りにしてルフィの腕を掴むと、知らぬまにそばにあった唇が息を奪う。
「!」
「ルフィ!」
「あらあら」
 周囲が息づまる声を漏らし、本人さえこの状況を把握できぬまま静寂が時を刻む。
 ガチャ、
「……………」
 静寂を破ったのは扉の開く音。入ってきたのはゾロだった。その光景を目に入れたゾロは一瞬眉間のしわを深くしたものの、彼の中でうまい具合に処理されたのか、いつもと同じ無関心な表情を取り戻した。そしてとりあえず一言。
「………おお、ルフィ。起きたのか」
 その声と同時、未登録[1]の指先がぺちっと軽い音を立ててルフィの腕を弾く。やっと唇を離したルフィは、なんのことはない、ゾロに久しぶりと返した。
 未登録[1]は自分に降った状況を掴めないまま、いや、起きたことはわかってはいたのだが、頭の中は混乱したままルフィを見る。
「………ルフィ?」
「ん?」
「ん?」
「おう。消毒だ」
「消毒って?」
「ワニにされてたから。消毒だ」
 彼独特の、無邪気さ溢れる笑みを返されて、なにか返す言葉をと呼吸をひとつ。しかし次の瞬間部屋中に響き渡ったのはサンジの声。
「てめェエェエェ!おれの妹になにしてんだっ」
「消毒だ」
「消毒だ、じゃねェ!」
「あ〜?なんだよ。なんでそんなに怒ってんだ?」
「てめ、意味わかってやってんのか?アアァアァ?」
 引っ掴まれた首根っこ。喧嘩腰のコックに、自分のしたことの意味をまるで理解していないらしい船長。
 なにか言いたいのは自分のはずなのに、あれれと置いてけぼりのパティシエはひどく所在なさげに下を向く。そんな彼女の肩をぽんと叩いたのは小悪魔フェイスの航海士。
未登録
「ナ、ナミちゃん」
「意味のあるキスは、数に数えるのよ」
 本人すらわかっていないであろうその意味は、もう少し大人になればわかるのかもしれない。 

 

 


言ったじゃないか、ルフィ×ヒロインって!(赤っ恥)
03/10/12 ×