犬も食わないなんとやら

 

 

一過性の台風に過ぎない。だけどそれは、やたら体力を消耗してしまう。


家に帰ると電気が消えていた。柳田俊文は玄関に立ったまま怪訝な顔をする。
いつもなら妻のが待っているこの家は、煌々とした明かりに包まれ、自分を迎え入れるはずだった。

「……?……おーい、」
ただいまも言わず、無人であるかないかを確かめる。玄関から見えるリビングも真っ暗だ。いないのかと小さく漏らし、靴を脱ぐと家へ上がった。

今日は出かけるとは言っただろうか。普通の朝だった気がする。いつも通り起こされて、いつも通り仕事へ。
今夜ちょっと実家に帰ってくるわね、今夜友だちとご飯食べに行きたいの、そのどちらも、それ以外の理由も聞いてはいない。

とりあえず携帯に電話してみようと、青いネクタイを緩めながらリビングの電気をつけた。携帯を出そうとポケットを探る俊文はリビング内に目を走らせる。


「うおっ」
ガタッと音を立てて携帯が手から零れ落ちた。同時に一歩足を引くと、背後のドアに頭と背中を打つ。
「い、たのか」
目の前には妻であるが座っていた。無表情でテーブルの中央に目を向けている。
「お前、真っ暗な中で何やってんだよ」
電気つけろよという俊文の声に、は視線だけ向けた。

「あなた」
「あ、あ?」
「私と、離婚するんですってね」
「は?」

凍るほどに冷たい目をした女は、二枚の紙をテーブルに出す。一枚はメモが書かれた小さな紙切れ、もう一枚はA4サイズの用紙、最近幾度か目にしていた。

「離婚とど、」
「私の分は書いてありますから」
「ちょっと待て」
「言われるより言ってやるわ」
何が何だかわからない俊文は、もう一つの小さな紙に目を向ける。ここからでは読むことが不可能なため、テーブルへ近づいた。
は椅子から立ち上がりキッチンへ。紙を手に取った時、水道の音が聞こえた。


「……『離婚したら‥』……」


『離婚したら慰めてあげますからね。 カオリ』


カオリ、

カオリ、


………吉田香織か………。

憎らしい受付嬢の笑顔を思い出す。



「スーツをクリーニングに出したの」
水道の音に混じっての声が響いた。
「今日取りに行って、それも返されたわ」
「あー‥、あのな、」
「笑いものじゃない。私」
「いや、吉田は、」
「あぁ、受付の吉田さんが相手なんだ」
「そうじゃなくて」

質の悪い悪戯だ。
先日、仕事仲間である紀三郎の娘が絡んだ案件があった。紀三郎には内密のうちに解決したいという内容で、誤魔化しているうちにうっかり「離婚」と口を滑らせたため、『柳田さん奥さんと離婚するんですって!』などと、吉田がその場しのぎの出任せを言って乗り切った。
この紙切れはその延長の悪戯だろう。



「冷静になろうとしたの」
でも、冷静になんてなれなかったからそれ書いた。
俊文は「それ」が指すであろう離婚届けを見止めた。幾度となく見てきた字体で、名前が書かれている。

「離婚なんてする気はない」
「自分から言いたかったの?」
「する気ないって言ってるんだ」
「じゃあ、離婚もしてないのに慰めてもらうんだ」
離婚届を取ると、彼女がいるキッチンへ足を向けた。シンクの前、はただ、流れる水を見ている。目を真っ赤に腫らしてることに、今気づいた。
女に泣かれると、どうしてこうも弱くなってしまうのだろう。それも、自分の最愛の人となれば格別だ。自分は悪くなくても、罪悪感が重く背中に圧し掛かる。

「ゴメン、」
「……認めるんだ」
「そうじゃない。俺は浮気なんか、」
「じゃあ何で謝るのっ」
伝い落ちる涙に吸い寄せられるように近寄れば、は身を硬くしてそれを拒んだ。
「明日っ、」
「明日?」
「俊太郎連れて、実家帰る」

こちらを見ない彼女をどうにか向かせようと、それと、彼を拒んでいることが苦しかった。だから腕を取って引き寄せた。
「もういいよ」
「よくない」
「吉田さんのとこ行けば」
「浮気なんかしてねェよ」
「だったら何でそんな紙がポケットに入ってるの」
「悪戯だろ、悪戯」
「嘘だ」
「何だったら吉田香織、今すぐここに呼んでもいい」
「そんなの私が嫌よ」
「じゃあ、先生も呼ぼうか?本田も、紀三郎さんも」
「知らないっ」
「知ってるだろ。俺がいつもお前に話してる」
「会ったことないもん」
「なら、会わせる。俺の奥さんだって、会わせる」

振りほどこうと動いていた腕が止まる。

「浮気なんかしてない。だから子どもみたいに怒るな」
「……何で謝ったの」
「なんとなく…」
「何となくで非認めるような発言しないでよ」
「あぁ」
「そーゆーの不利になるんでしょ!弁護士のくせに!」
「ごもっともです」
本当にしてないんだね、俯いて言うの声には落ち着きが戻っていた。

さて、台風の後片付けを始めよう。
どうやったら機嫌が直る?この台風の目は。

 

 


やべ、柳田さんの奥さん、ちゃんと役名あった…(すんまそん)
04/07/17  ×