柳田弁護士の奥様

 

 

私はいつからあんたのお母さんになったんだ。

トーマス列車のおもちゃで遊ぶ。最近よくかまって遊んであげるようになったけど。
そう、それはトーマス。そっちはヘンリー。違う違う、ゴードンはあっち。

「俊文さん」
「あ?」
「そろそろ9時だから」
「あぁ。……ほら、お母さんとこ行きな」
まだまだ小さいうちの子は、もう九時には寝かさないといけないのよ。名残惜しそうに、それでも一緒に玩具を片付ける姿、微笑ましいけど。

微笑ましいけど、最近思うことがある。

「なあ、母さん」
「え?」
「イカ、まだあったっけ?」
「………冷蔵庫」
「冷蔵庫ね。……何怒ってんだよ」
「怒ってないけど?」
寝かせてくるね、言って、リビングを後にした。





最近よく思う。
私に名前があることを、貴方は覚えていますか?

私は覚えてる。

貴方の名前は俊文。

結婚前はずっと柳田さんって呼んでたけど、役所に婚姻届を提出した後、柳田さんはおかしいだろと、そう言ったでしょ。だから私は俊文さんって呼ぶようになった。

でも今貴方は私を何て呼んでる?

『おい』
『お前』
『母さん』

………いつから私が、あんたのお母さんになったのよ。

昔は凄くカッコよく見えて、つき合い始めた頃は少し舞い上がってて。プロポーズなんかも、ちょっと強引だったけど、強引だったけど?
そう、強引だったのよ、無理やりもいいとこで。



「おい、」

ほらきた、おい─‥、だって。

「何?」
「イカ」
「冷蔵庫って言ったじゃない」
「ない」
ため息をついて冷蔵庫を探せば、貴方の視線の先が分かる。冷蔵庫を探す私には興味あるのよね、イカを待ってるから。
「………あるじゃない」
「あぁ、そこか」
「ちゃんと探してよ」
「悪い悪い」
何も用意されてないテーブルに、ビールを用意するのも私。寝かしてる間に、どうして自分でやってくれないのか不思議でならない。ラップを取って、醤油と醤油皿、あとはワサビ。箸もコップも出してあげて、……あなた何もできない子みたいよ。

「お前も飲む?」
「いらない」
「そう」
飲めばとは言わないのね。

「………なぁ」
「え?」
「だから何怒ってんだよ」
「怒ってないって言ったでしょ」
「弁護士の観察力甘く見るな」
「………観察力ね」
夫としての観察力の方はどう?思わず聞きそうになったけど、口には出せなかった。

「プロポーズ」
「は?」
「あれって強迫じゃないの?」
「脅迫?」
「脅すじゃなくて強いるの方よ」
「強迫か。って随分昔の話だな」





いつもと同じ時間、同じバー、同じ約束。
違ったのは持ち物を告げられたこと。言われたとおりにそれを持って行ったら、彼はもうバーで待ってて。その先の流れる時間もいつもの変わらなかった気がする。
そう言えば、言われた物を持ってきたけど、カバンから出せば貴方は一枚の紙を出して言ったわね。

『オレのとこは全部書いてあるから』

柳田俊文

貴方の名前が記入された婚姻届だった。持ってこいと言われた印鑑の意味を知って、バカみたいだけど泣きそうになった。





「泣いてたよな?」
「泣いてないわよ」
「そうだっけ?」
「………強迫だった」
「強迫は罪になんない」
「え?」
「脅す方なら脅迫罪になるけど」
強いる方は罪になんねーだろ、と。注がれたビールを飲み干す。
「印鑑押しただけなのよね、私」
「お前が酔って字書けないって言ったんだろ」
「でーも、私印鑑押しただけだわ」
イチャイチャする時期だって当に過ぎて、貴方は仕事が忙しくて、子どもができれば私も忙しくなって、一緒の時間も少なくなって、たまにあっても貴方は仕事の愚痴とお酒ばっかで。
何があれって、そうよ、私は『おい』って名前でも『お前』って名前でもないのよ。まして貴方のお母さんでもないんだから、








久しぶりのそれは、内に沁みた。







「なに‥」
「お前も飲めよ」
渋った顔で、少しだけねって言った私に、貴方が出してくれたコップ。
「何で」
「ん?」
「名前で呼ぶのよ」
「お前だって俊文さんって呼ぶだろ」
「私はいいのよ、貴方の場合は、」
「たまに呼ぶからいいんだろ?」
自称一流弁護士から出たその言葉は、久しぶりに私の心をときめかせた。

 

 


管理人大自己満足。佐々木蔵之介様が大好きなのです。
04/05/22  ×